株式会社辰栄工務店 志 賀 龍 夫2001年1月1日

21世紀の夜明けと共に 伊豆下田 初日の出

終戦の明くる年、私は新宿の淀橋第二小学校に入学致しました。
焼け跡にレンガの基礎があるだけの青空教室です。
自分の家は焼け跡から集めたトタン板のホッタテ小屋でした。焼け野原になってしまった大都市東京は、復興に向けて戦後の歴史を歩む第一歩を迎えた年になります。
やがてゆるやかに復興が始まり、木造で学校の新校舎が造られ、教会や住宅が建ち始め、造られる建物はほとんど木造建築でしたから、東京の材木屋さんは大繁盛を呈したのです。
 私の住んでいた新宿の駅近くは、区画整理がわりと早く、今も子供の時のままです。
今となってみると公共事業である区画整理は、当時もっと広範囲に行う必要があったように思えます。
次第に近代化も進み、木造から鉄筋コンクリート造・鉄骨構造の建物が増えはじめ、効率的な建築が要求されるようになり、さらに中層から高層へと変化が進む様になりました。
このような時代の流れの中で、建築基準等は変わりながらも日本独自の(地震対策)基準にもとずき検査体制も確立されて来たのです。
 昭和34年、私が20才を迎えた時、メートル法が実施されました。日本古来の尺と言う単位で物を作ってはいけないという訳の分からぬ法律ができ、大工である我が家としてはとても戸惑った事もありました。後に自然撤廃致しましたが、さしがね 90度に曲がったかね尺の事ですが、日本の伝統文化が凝縮された道具なのです、
昔から規躯術と言って、さしがねが無かったら社寺建築はでき
ません。
大切に伝えて遺す文化のひとつでしょう。
 時は流れ、力強い経済成長の中で、技術や工法・部材や設備機器等の開発によって生活様式も和式の物から様式の物へと次第にとって変わって行くのでした。
私も事実、父の作った桧風呂が大好きでしたが、当時は薪を作って釜にくべるのが大変で、「ガス釜はいいな」と思いましたし、下水が完備され水洗便所になった時も「これは衛生的だな」と、生活の豊かさを感じたものでした。
 建築の発展は更に続くのですが、その中で色彩に関する時代の変化を見ることが出来ます。
色は素材によって出るもので、昔は銅版・瓦・レンガ・木材・石材・紙等、素朴な素材によって構成されておりましたが、豊かな経済力と共に、建築部材は巾を広げステンレス・アルミ・ガラス・タイル・化学合成品等が、構造的にも耐久性にも優れ、頻繁に使われるようになりました。
アルミ板の外壁は好みの色が出せ、ホーローの焼き付けもできます。
陶磁器質のタイルも構造物に合った質や色を選べるようになり、種類も豊富でそこに新しい色彩感覚が生まれてきました。
また塗料メーカーの研究により、耐久性を増しながら内外装の需要にも対応して、日本人の色彩感覚を高める影響を及ぼして来たと思います。
このような企業の開発研究による成果は、生活環境に大きな進歩と成果を築いたのです。
大都市東京が、益々高層化・巨大化していく中で、私たち町場の建築屋は仕事とどのように拘わり合って行くのか大変苦慮するところです。
 変化する時代への対応を考え、どんな仕事も協力し合って熟練した技術を駆使し、事に当れば更に成果を挙げる事が必ず出来ると私は確信致しております。
                              
( 志賀龍夫 )
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